薄いベルの音が鳴って、彼女は入ってきた。
雨の匂いをまとったまま、入口で一瞬だけ立ち止まる。
傘をたたむ仕草が、妙にぎこちなかった。
「予約、していた高梨です」
一ノ瀬澪は頷いて、向かいの椅子を示す。
テーブルの上には、使い込まれたタロットカードが一組。
「今日はどうされましたか」
高梨は少しだけ迷ってから口を開いた。
「……恋人のことで」
その言い方に、澪はわずかな違和感を覚える。
言葉は正しいのに、温度が合っていない。
「最近、様子が変なんです。優しいんですけど……なんというか、前と違う」
「違う、とは?」
「ちゃんと説明できないんですけど……まるで、別人みたいで」
――別人みたい。
その言葉が、やけに引っかかった。
澪は何も言わず、カードをシャッフルする。
指先が勝手に動くような、いつもの感覚。
「3枚引きで見ますね」
カードを並べる。
一枚目。
塔。
二枚目。
カップの5。
三枚目。
カップのナイト。
その瞬間、ほんの一瞬だけ、空気が冷えた気がした。
澪はカードを見下ろす。
(おかしい)
意味は繋がるはずなのに、何かがずれている。
「……まず、最近大きな変化がありませんでしたか」
「変化?」
「突然の出来事とか」
高梨は少し考えて、首を振る。
「いいえ、特には……」
澪の視線が、塔のカードに落ちる。
“崩壊”“事故”“急変”
それが“なかった”はずがない並びだ。
「失ったものはありますか」
カップの5に指を添える。
その瞬間、高梨の指先がぴくりと動いた。
「……いえ」
ほんのわずかな間。
だが、否定にしては遅すぎる。
澪は三枚目を見る。
カップのナイト。
本来は“優しさ”“愛情”“訪れ”
だが、今は違う意味にしか見えなかった。
(“来ている”)
誰かが。
すでに。
「その方、最近よく“来ますか”?」
高梨の顔が固まる。
「……え?」
「家に」
沈黙。
やがて彼女は、ゆっくり頷いた。
「……はい。最近は、毎日」
背筋に冷たいものが走る。
澪はそれ以上、踏み込まなかった。
「今日はここまでにしましょう」
違和感の正体に、まだ名前をつけたくなかった。
その夜。
澪は、カルテを見返していた。
高梨の情報。
年齢、職業、相談内容。
そして、何気なく目に入った一文。
「交際相手:故・高梨直樹(事故死・3ヶ月前)」
手が止まる。
もう一度、読み直す。
――事故死。
澪の脳裏に、塔のカードが浮かぶ。
崩壊。突然の終わり。
カップの5。喪失。
そして、カップのナイト。
(来ている)
静かに。
当然のように。
“恋人として”。
店の奥で、カードが一枚、ぱたりと落ちた。
裏返ったそれを拾い上げる。
そこに描かれていたのは――
カップのナイト。
まるで、微笑んでいるようだった。
#2に続く