翌日の夕方。
店を閉めようとした時、ベルが鳴った。
澪は顔を上げる。
昨日の女――高梨だった。
だが様子が違う。
青白い。
眠っていない顔だ。
「……少しだけ、お時間ありますか」
澪は黙って席を示した。
高梨は座るなり、小さな紙袋をテーブルに置く。
「これ……見てください」
中には、男物の腕時計が入っていた。
古いシルバーの時計。
擦り傷の位置まで、妙に生々しい。
「彼のものです」
澪は視線を上げる。
「でも、葬儀の時に棺へ入れたんです」
店内の空気が静まる。
「昨日、帰ったら部屋に置いてありました」
「誰かが持ち出した可能性は?」
「ありません」
即答だった。
「彼の家族はいないし、鍵も替えています」
高梨の指が震えている。
「それに……」
彼女は言葉を切る。
「最近、“生活音”が増えたんです」
「生活音?」
「お風呂の音とか、冷蔵庫を開ける音とか……」
澪は何も言わない。
「でも姿は見えないんです。気配だけ」
沈黙。
時計の秒針だけが、小さく鳴る。
――カチ、カチ、カチ。
澪はその音に違和感を覚えた。
(動いてる?)
高梨は言った。
棺に入れた、と。
なら、止まっているはずだ。
澪は時計を手に取る。
その瞬間。
ぶつり、と頭の奥で何かが切れた。
雨の夜。
フロントガラス。
激しいブレーキ音。
そして。
助手席にいた“誰か”の横顔。
澪は反射的に時計を落とした。
ガン、と鈍い音が響く。
「……先生?」
高梨の声が遠い。
澪は息を整える。
今見えたものは何だ。
事故の記憶?
それとも――
視界の端で、何かが揺れた。
店の奥。
鏡の中に、一瞬だけ男が立っていた。
黒いコート。
濡れた髪。
だが次の瞬間には消えている。
澪は立ち上がり、鏡へ近づく。
そこには自分しか映っていなかった。
「……先生?」
高梨が不安そうに繰り返す。
澪は振り返る。
そして、ようやく気づく。
高梨の左手。
薬指に、指輪の跡があった。
まるで長年つけていたものを、
最近外したみたいに。
だがカルテには、
“交際相手”と書かれていた。
結婚ではなく。
恋人。
澪は静かに尋ねる。
「あなた、本当に“恋人”だったんですか?」
高梨の表情が止まった。